こんにちは、愛弓です。
大学卒業後、私はセラピストになりました。
もしも私の人生にも、”人生のテーマ”のようなものがあるのだとしたら…それはきっと”癒し”なんじゃないかなと思います。
そして、もしかしたら、”話すこと”というのも、それに関わってくるのかもしれないなと。
今回は、私がセラピストになる前のことをお話していこうと思います。
”癒し”というテーマに出会うまでのことを。
思い出したことをとりあえず書いている状態なので、わかりにくい所・話が脱線してる所もあると思いますが、
あまり深く考えず、なんとなく読んでいただけたら嬉しいなと思います。
ジャンプする目次
- 自分の話し方が大っ嫌いで、人と比べてばかりだった。
- 人の話し方・発声・動作を真似るうちに、自分を見失った、中1~2。
- ”癒し”が似合う人をうらやましく思う気持ちと、そんな自分を否定した私
- 自分を表現することが苦手で、抑え込んでばかりだった
- 自分の感覚・思考が恐くて拒絶した。ただ普通でいたかった
- 人を騙すのは苦しい。相手のためになると信じきれないと…
- 化粧品を通じて、『これだ! これを一生やっていきたい』と思えるパーツを見つけた
- 相談にのったり、心の内をさらけ出すような深い話と、その瞬間の訪れる感覚が好きだった
- 『自分には似合わない』と思っていた言葉は、実は身近なところにあって…それが私の人生のテーマになった
- 最後に…
自分の話し方が大っ嫌いで、人と比べてばかりだった。
幼い頃からずっと、私は話すこと・コミュニケーション能力に自信がありませんでした。
人が話してるのを聞いては、『あの人は、どうやって話してるんだろう?』とか『みんなみたいに会話をするには、どうしたらいいんだろう?』と思いながら、眺めていました。
何人かで話す時は、まるで空気のように黙って聞いていて。
1対1の時は、ただ、目の前にいる相手のことだけを考えて、一生懸命に話し続けていたような気がする。
そして、『私はどうして、もっと上手に人の話を聞くことができないんだろう?』『どうして、順番や内容を考えてから話すことができないんだろう?』と悩んでいました。
『もっと相手の気持ちを考えて、もっと相手が求めているものを考えて、もっと上手に質問できていたら…』と心の中で何度も何度も考えていました。
私はいつも、目の前にいる人に向けて、一生懸命に話していて…その瞬間瞬間に思いつくことをそのまま話していて…自分が何を話したかも、どうしてそんなことを言ったのかも覚えていないことが多かった。
だからまた、『みんなはどうしてるんだろう?』『どうしたら、みんなみたいにうまく話せるんだろう?』と悩んで悩んで…でも、うまく頭で考えることができない、きっと相手のことを思いやる話し方ができていない。
そんな自分の話し方が大嫌いだった。
自分の話し方が大嫌いだから、人が多くなればなるほど、口を開くのが恐くなった。
人にどう思われてしまうのかが恐くて、自分の気持ちを言葉にすることができなかった。
人の話し方・発声・動作を真似るうちに、自分を見失った、中1~2。
いじめられてた時期、孤立してた時期には、よく思った。
今でも、1人になると思う瞬間がある。
『どうして、あの人の周りには、たくさんの人がいて…。どうして、あの人はたくさんの人に可愛がられるんだろう?』
すごくいい人だったり、人懐っこいい人だったり、笑顔が素敵な人だったり…そんな彼女たちを見ながら、『私は、どうやったら、彼女たちみたいになれるんだろう?』
私はきっと、人の輪に入れてない瞬間が、ものすごく恐かった。
考えて考えて…たくさんの人のマネをしながら、『あぁでもない、こうでもない』って考えてた。
話し方、歩き方、立ち方、手の動き、口の形、笑い方、声、笑い方…たくさんのマネをしてるうちに、元の自分がわからないことに気づいた。
『元の自分に戻ろう』と思うのに、元の自分がわからなくなった。
『私は誰だろう?』『私はどうしてたんだっけ?』と不安になったのは、中学1‣2年の頃だった。
”癒し”が似合う人をうらやましく思う気持ちと、そんな自分を否定した私
中学2年の時、転校した先で、
誰の話もよく聞いてくれて、優しい、柔らかい空気感を持った人がいた。
彼女の優しさに触れながら、聞き上手なコミュニケーションを見ながら、『彼女みたいな人が、”癒し系”なんだろうな~』と思った。
同時に私は、”癒し系”という言葉が似合ってしまう彼女がうらやましくて。うらやましいんだけど、『きっと、私は”癒し”とはかけ離れたところにいるんだろうな』と思った。
『私なんかが、”癒し”に憧れるなんて…』と、申し訳ない気持ち、恥ずかしい気持ちになって。そんな自分を否定した。
自分の思った言葉を簡単に言葉にしてしまう。
先生の話だってちゃんと聞くことができない。
人のことを思って寄り添うこともできない。
人の優しくしてあげることもできない。
私はきっと、自分のことばかり考えている自己中なんだと思った。
当時の私はまだ、自分が人の感情を感じ取って、それに合わせて話していることには気づきもしなかったから。
ほんの少しだけ、人の感情に敏感で、それをまるで自分のことだと錯覚してることにも気づいていなかったから。
自分を表現することが苦手で、抑え込んでばかりだった
自分の感じたこと・思ったことを言葉にすると、目の前にいる人が泣いてしまう。怒り・悲しみ…いろんな感情が表面化してしまう。
そんな体験を何度も何度もしてたんだと思う。
小学生だった私は、涙に驚き、『私が思ったことを言葉にすると、目の前にいる人を傷つけてしまう』と思い込んだ。
誰かの怒りを感じたり、ぶつけられると、胸の奥がザワザワして恐くなった。『私はなんて悪いことをしてしまったんだろう』と思った。
人の感情に過敏になり、自分の感じたこと・思ったことを外に出さないように気を付けるようになった。…いつの間にか、自分の内側にある物を言葉にするのが苦手になった。
楽しい・嬉しい・悲しい・苦しい…そんな感情でさえ、『みんなはどうなんだろう?』と周囲の様子をうかがった。
今になって思えば、もっと幼い頃の私も、何度も同じようなことを体験していて。『みんなはどうしてるんだろう?』『どうするのが正解なんだろう?』と、周囲を気にしてた。
たぶん、小学生だったあの日。涙に驚いて『思たことを言葉にすると、目の前にいる人を傷つけてしまう』と思い込んでしまった、あの日。
私は自分の中で抑え込み続けていたものを、外に出してみたくなったんだと思う。ずっと我慢してたものを、我慢してた理由を忘れて、出してみたくなったんだと思う。
そして、『出すべきではなかった』『私は、なんてひどい人間なんだろう…』とひどく後悔した。
自分の感覚・思考が恐くて拒絶した。ただ普通でいたかった
高校生でリーダーをしていた頃、不思議と、人の気持ちがわかる瞬間があることに気づいた。
初めのうちは、みんながやる気を出して、進んで作業できる環境を作るために、それを使っていた。
でも、ふと思った。
『これは、自分の思い通りに、人をコントロールしようとしてるってことなのかな?』って。
自分の感覚・思考が恐くなって、拒絶したくなった。
『これを知られたら、恐がられてしまうかもしれない』『普通の人として、学校に通っていられないかもしれない』と、ものすごく恐くなった。
普通の人でいられないこと、普通の生活を送れないことが、ものすごく恐かった。
人に気づかれることがないよう、注意するようになった。
でもどうしても、目の前にいる人のために使いたい瞬間もあって…そういう時は、その感覚に気づかれることがないよう、そっと日常に潜ませるようになった。
人を騙すのは苦しい。相手のためになると信じきれないと…
大学生になった時、なぜか『接客業をしたい』と思った。
その理由もわからず…ただ、コミュニケーション能力にも容姿にも自信のなかった私は、テレフォンアポインターをした。
『きっと電話なら平気だろう』と思ってた。
相手の心をつかんで契約をとるたび、自分が本当に正しいことをしてるのかがわからなくなった。
私が契約をとった人たちは、優しい人ばかりのように感じた。
『私が勧めてるサービスは、本当にその人いいつ様なものなのか?』
『自分でも気づかないうちに、人をだましてるんじゃないのか?』という恐怖で、夜中にうなされ、眠れなくなった。
いいものだと教わったサービスが、本当にいいものなのかがわからなくなった。
化粧品を通じて、『これだ! これを一生やっていきたい』と思えるパーツを見つけた
大学時代、化粧品を通じて、たくさんの癒しを体感していたんだと思う。
自分自身が癒されていたという経験は、ものすごく大きかった。
コスメカウンターに行っては、(自分へのものも、他者へのものも)話し方や接客方法をよく観察してた。
今になって思うと、『人が癒されるには何が必要で、何が不要で…』『どんな話し方をすると、お客様がどう癒されていくのか…』みたいな、そういう感覚を養っていたようにも思う。
気づいた時には、そういう接客方法や、人のまとめ方・士気の上げ方などを語り合っていた相手(勉強熱心な店長さんだったと思う)もいて…すごく不思議だったように思う。
『化粧品を通じて、一人で悩んでる人がいたら、支えてあげられる場所を作りたい』とか『全く関係のないことで悩んでる人でも、化粧品を通じて繋がりを作って、そばにいてあげたい』なんて思って、サークルを立ち上げたりもした。
結果、
文化祭で来場してくれたお客様との出会いで、私は、話すことで、人の心が動き、その心の動きで自分の心が魂から震え上がるような感動をする…という不思議な体験をした。
その瞬間、『これだ!』『この感覚をもっと体感したい』と、自分が一生やっていきたいものを見つけた気がした。
この時の体験が、『心が繋がるほど深く話すことをしていきたい』と思う(再確認する)きっかけになって、それを実現する初めの一歩としてセラピストになることに…。
今でも、あの感覚を求めてる自分がいる。
相談にのったり、心の内をさらけ出すような深い話と、その瞬間の訪れる感覚が好きだった
大学時代、何度も、人の相談に乗る機会があった。
相手の感情を感じて、それを言葉にしながら、相手の中にあったものを紐解いていき…
相手の感情が癒されていく感覚を体感したり。
相手の感情を体感しながら、今の自分が感じる感情を、今の自分にできる精いっぱいの言葉にしたら…
「自分の中にあった言葉を、欲してた言葉を全部言ってもらえたような気がした」とか
「誰に相談しても、そんなことを言ってくれる人はいなかった」と感動して、喜んでもらえたり。
出会う前に、1人でそんなに悩んで苦しんでいたことを知って…。
感じたことを言葉にしてるうちに、まだ出会っていなかったとはいえ、本当につらい時に一緒にいてあげることができなかったことが悔しくて。悔しすぎて、涙が出てきて…。
そんなダメダメな私に、「そんな考え方をする人には出会ったことがなかった」と驚き、なぜか心を許してくれた人がいて。
たぶん私は、相手のことを考えて、綺麗な言葉でアドバイスしてるつもりはないし、
自分に伝わってきた感覚を言葉にすることが楽しかったり、人に寄り沿って、その感覚を共有することが楽しかったり、人が動いたり癒される感覚を感じるのが好きだったり…。
きっと私は、誰かのために相談に乗っていたわけじゃなくて。相談に乗ってる時に訪れる感覚が楽しくて、それを楽しんでいたような気がしてた。
いつのまにか私は、その一体感のような感覚を好きになっていて。
たまにやってくる、まるで誰かが自分の中に入りこんでるような感覚、誰かの言葉と自分の声が重なるような感覚が楽しくて、その時間を愛おしく感じるようになってた。
誰にも話せず悩んでる人たちに出会って、心のわだかまりが解消できないままになってる人たちに出会って…『そういう人たちの力になりたい』と思うようになってた。
『自分には似合わない』と思っていた言葉は、実は身近なところにあって…それが私の人生のテーマになった
『心が繋がるほど、深く話すことを仕事にしたい』『あの感覚をもっと体感したい』と思ったところで、私にはその方法がわからなかった。
それを教えてくれる場所も、どこに就職すればそれを仕事にできるのかもわからなかった。
何より、自分がやってることを言葉にすることも、あの感覚をえる方法でさえも分かっていなかった。
今でも、そうだと思う。
自分でコントロールできるものではなくて、相手が求めてくれているから起こることなんじゃないかなと思う。その瞬間に、伝えるべき何かがあるから、誰かと重なるような一体感が焼てきて、誰かの言葉を代弁するような感覚で言葉が出てくることがあるんじゃないかなと思う。
就活の時、それ(心が繋がるほど深く話すこと)ができる場所を探したけど、見つからなかった。
その時に出会ったのが、セラピストという仕事だった。
でも、私は迷ってた。
ボディケアセラピストは、マッサージなどがメインで、心が繋がるほど深く話すことはメインじゃなかったから。相変わらず、日常にひっそりと潜ませなきゃいけないと思ってたから。
ある日、友達に、自分が本当に『やりたい』と思ってることを伝えた。
- 接客業をしたいけど、お客様が本当に必要とするもの以外の販売はしたくないこと。
- どこかの会社に属したら、『他の商品の方が会うんじゃないかな?』と思っても、自社のものを販売することになるかもしれない。それがものすごく嫌なこと。
- ただ、目の前にいるお客坂のことだけを考えて、一生懸命でいたいこと。
思いつくままに、いろんなことを語り続けたような気がする。
友達に、自分の本音を伝えたことなんて、ほとんどなかった。
だから、『変な奴だ』って思われたり、嫌われるのも、自分の場所がなくなるのも覚悟してた、それでも、誰かに聞いてほしかった。
彼女は、まっすぐに見て、うなずきながら、静かに聞いてくれた。
そして、「アドバイザーみたいなことかな?」「向いてると思うよ!」と言ってくれた。それが、ものすごく嬉しかった。
さらに彼女は、「愛弓ってさ、なんか”癒し”って感じするもんね」と。
その瞬間、自分の胸の奥に、”癒し”という音がスッと入るような不思議な感覚になった。
背筋が伸びて、ザワザワ・モヤモヤしてた心にスッと静寂が来るような、不思議な感覚。
”癒し”という言葉が予想外すぎて驚いた。
私はずっと、自分のことを”癒し”とは縁遠い存在だと思ってたから。
そして、”癒し”という言葉が似合う人たちに、あこがれ続けていたから。
あの日、あの瞬間、『私の人生のテーマは”癒し”だ』と思った。
ずっと求めていたものを、それにぴったり合う言葉をやっと見つけたような気がした。
最後に…
もしも私の人生にも、”人生のテーマ”のようなものがあるのだとしたら…それはきっと”癒し”なんじゃないかなと思います。
…そんな言葉から始まって。
私が”癒し”というテーマに出会うまでの話をしてきました。
”癒し”について書いていくつもりだったのですが…気づいたら、”話すこと”に関しても書いていましたね。
まだまだここに書いていないこともたくさんありますが…
もしも私の人生のテーマのようなものがあったとしたら、それはきっと”癒し”だと思います。
そしてその手段の1つとして、”話すこと”や”自分の内側にある物を表現すること”が出てくるんじゃないかなと思います。